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四月大歌舞伎(昼の部) [観劇(伝統芸能)]

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歌舞伎座百二十年 四月大歌舞伎(昼の部)

歌舞伎座 2008年4月13日(日)11時開演 1階16列27番

1.本朝廿四孝 十種香 一幕
時蔵の八重垣姫は、平成5年2月南座、平成17年3月国立劇場に続き3度目だが、いずれも観ておらず今回が初見。文楽でしばしば観ているためか馴染みがあると思っていたが、歌舞伎では平成17年南座顔見世の坂田藤十郎以来というのは少し意外。

その時蔵だが、きちんと丁寧に取り組んではいて切々としたところも所々に見せてくれるのだが、それでもこの人にして思ったような濃さが感じられないのが少々もどかしい。勝頼を想う情念をもっとストレートに出して貰っても構わないのではないかと思う。

この八重垣姫に対し、秀太郎の濡衣は全体を通じてもう一段と詰んだ芝居をしていて十分ではあるのだが、それでもどこまで濃い芝居をしたらよいのか、少し躊躇しているようにも感じられる。

橋之助初役の勝頼は、顔形や声質が父の芝翫にそっくりだとは思うものの、八重垣姫の想いを一身に受ける存在感が薄い。確かに為所がなく出てきただけ雰囲気だけで納得させなければいけない難しさのある役だが、その意味では残念ながら少々荷が重いと言わざるを得ない。

そんな状態で芝居が進むので、我當の謙信が登場したときも今一つ場が盛り上がっていないのに出てきてしまった、という感じがしてしまうのが気の毒。芝居自体はそれなりに大きさもあって問題はないのだが。その後に出てくる錦之助の白須賀六郎は義太夫狂言の討手らしさを感じさせ違和感はないのだが、続いて出る團蔵の原小文治は花道を駆けていく走り方が少々世話っぽいのが残念だった。



2.熊野 長唄囃子連中
このところ能写しの演目をしばしば取り上げる玉三郎だが、これもそのうちの一つと言えるだろう。能から長唄に移されたのは明治時代だが、平成14年熊本八千代座、平成15年南座と玉三郎の舞踊公演で取り上げられてきた。今回は歌舞伎舞踊として構成も見直したものとのこと。

とは言え、やはり能がかりなので全体としては淡々としており、仁左衛門の宗盛、七之助の朝顔、錦之助の従者、そして芯となる玉三郎の熊野と、いずれもゆったりと上品な雰囲気で進められていくが、背景の書き割りが宗盛の館から清水寺の舞台になり桜満開の景色が広がったのは、華やかさも加わって良かったと思う。



  長谷川伸 作 寺崎裕則 演出
3.刺青奇偶 二幕五場
先代から中村屋が得意とする狂言で、当代は勘九郎時代から今回で3度目だが、これまで機会がなく今回が初見。過去2回と同じく勘三郎の半太郎に玉三郎のお仲という顔合わせ。

勘三郎からは、自身が好きな芝居だということが十分に伝わってくる。発端、熊介とのやりとり、病に伏したお仲をいたわる場面、そして最後の場面まで、観客の眼を逸らさない熱演。ただ、半太郎はお仲を救う場面や熊介へ向けた言葉からもわかるように至極真っ当な男でありながら、どうしても博奕だけは止められずそれ故に裏街道を歩むことになる人生の陰翳をさらにくっきり見せて欲しいとも思うが、それは少し求め過ぎなのかもしれない。

玉三郎も、序幕で捨て鉢さを見せるところでは、この人ならもっとと思わせる部分もあったのは少し意外だったが、半太郎に連れて行ってくれと迫る一途さ、そして刺青を入れる場面での切ない受け答えにはきちんと胸に迫るものを感じさせてくれた。

また、特筆すべきは仁左衛門の政五郎。低い声を効かせたたゆっくりとした台詞でこの人らしい独特の太さと凄みを出して、芝居に奥行きを与えていたように思う。

それにしても「博奕に身を持ち崩す」という言葉自体、最近はちょっと聞かなくなった気もする。ただ実際には競馬、競輪、パチンコに止まらず株式、為替まで含めて考えると対象が多様化したというだけで、不確実な勝負に賭ける事自体を止められない人間が一定数確実に存在することは今も昔もあまり変わらないのかもしれない、などということも少し考えてしまった。
タグ:歌舞伎
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